『「時」を生きるイタリア・デザイン』②

①の続き。

本書の中で最も興味深かったのが、巻末のエットレ・ソットサス氏へのインタビューの内容である。

 

イタリアにとってデザインは、倫理的な観点から理解され、認識されてきた。アメリカのような商業的観点ではなく、人間を幸せに居心地よくすること。人生を明るく照らすこと。それがイタリアにとってのデザインだった。そのため、デザインの大部分は知識層(=芸術家、画家、建築家、美術評論家、政治家、映画監督、作家、文学者、音楽家etc...)が人間や人生を総合的に考える中から生まれてきた。

 

イタリア人はこう考える。私はデザインしたい。なぜって、好きだから。あれが欲しい。どうしてって、好きだから。

 

ソットサス氏は、イタリア人のデザインのとらえ方をこのように説明する。そして、ドイツのデザインを例に挙げて、「合理的なもの」に対する批判を述べる。

 

エンジニアはすべてを知っているが、知っているのはそれだけだということだ。問題はそこにある。現代社会には、人間の実在について私たちが全く知らない、謎に包まれた神秘的なゾーンが存在している。この不可思議なゾーンについて、誰かが配慮する必要がある。なぜなら、合理性のあるゾーンについては皆が心配している。世界で最も容易なことは合理性のある事なんだ。難しいのは、不可思議な謎と対応することだ。

 

ある人が恋をしたとしよう。その恋については、どのようにも理由がつけられる。しかし、その先はどうなるかは全く分からない。完全なるミステリーだ。これと同じように、すべての側面において神秘性は存在している。だから、未来のデザイナーの役割は、この不思議なミステリーゾーンの楽しさや、この場所やオブジェのイメージを正確にデザインすることだ。

 

インタビューのさわりはこんな感じである。

 

イタリア人のデザインするプロダクトや建築は、たしかに理屈では説明できない不思議な魅力を感じるものが多い。その答えをこのソットサス氏の話の中に垣間見たような気がする。